これが日本映画だったら映画館へ足を運びたいのに……というささやかな良作(邦題はダメダメ) ジャレッド・ヘス「Mr.ゴールデン・ボール/史上最低の盗作ウォーズ」


 ジャレッド・ヘスが監督すると、邦題はこうなる運命らしい。かつて「Napoleon Dynamite」が「バス男」というクソ邦題を付けられて大不評を買った経験も虚しく、原題「Gentlemen Broncos」が今回はこのようになった。両方を配給した21世紀FOXは本当に反省してくれ。

 で、そんな話はどうでも良くて、この映画はささやかながら、一見どうしようもない人々の善の部分を見つめる一本に仕上がっている。

 友達もいなくて、SF小説ばかり書いている主人公のベンジャミンと、自分のデザインした服が売れることを夢見ている母親(家中に生地が溢れ、そのために生活費もままならない)の母子家庭と、ベンジャミンの作品をパクった売れっ子SF作家のショッボい盗作対決を中心に話が進んでいく。

 ベンジャミンを都合よく利用する女(でも主人公の作品に心から感動して素直な感想を言う)や、教会から守護天使だと母親に連れられてくる本業のわからない金髪モジャモジャ男(でも主人公が落ち込んでいると優しく励ましてくれる)など、癖があって気持ち悪くて隣にいても全然お友達になりたくない人々ばかりなのに、「なんだコイツいい奴じゃん」加減が映画をほのぼのとさせている。主人公の無口ながら、ひたむきにもがく姿も好感が持てる。

 現実世界と並行して描かれるSF小説世界もまあショボいし荒唐無稽すぎるのだが、基本的に静かな映画のアクセントとしては良かった。

 主人公は、母親がことあるごとに渡してくれるポップコーン細工(この大味なアメリカ感もいい)にうんざりとしているが、そんな母親の優しさがもたらした結果は、夢を追い求める一人の人間だからこそ行動できたものだろう。その辺りに、ジャレッド・ヘスの人々に対するヌルくも暖かい目線を感じられる。

 日本映画が予算で海外に勝てないなら、こんな邦画を作ればいい。そしたら観に行くんだけどな、と思わせる良作だ(日本未公開だったけど)。

レディー・ガガは21世紀究極の母親像を体現していると思う話、もしくは 「並行世界」なんてぶっ飛ばす「Born This Way」


 「もし自分が人生で違う選択をしていたら……」と考えることがある。いわゆるこの世界とは別の「並行世界」があるとすれば、そちらの自分は、この自分とは全く違う生活をしているのではないか。

 東浩紀クォンタム・ファミリーズ」と、そのなかで言及された村上春樹の「三五歳問題」は、まさにこの並行世界を主題としている。同作品は、現代を憂鬱に過ごしていた主人公が何重にも交差した並行世界に巻き込まれることで、家族との絆を再発見しようとする物語になっている。

 「三五歳問題」はこの作品のなかで主人公が執筆した「村上春樹論」として登場する。

 消去法の先にある人生は、過去に「なしとげられる《かもしれなかった》こと」が膨らみながら進んでいく。三五歳を過ぎると、その比重が実際に歩んできた過去の人生よりも大きくなり、人はそこから込み上げてくる憂鬱から逃れられない……とするのがこの仮説だ。

 実に納得するし、思い当たる節もその閉塞感も充分に感じるが、一先ずこちらは置いておいて、ここ2、3ヶ月で私が最も感動しているコンテンツの話をしたい。というより、こちらが本題だ。

 いまや日本でもすっかり有名になったレディー・ガガの曲「Born This Way」の話である。

 同名のアルバムは世界で600万枚以上を売り上げ、日本でも60万枚を売り上げるという超絶ヒットぶりだが、この「Born This Way」は、先述の「並行世界」周りにある「もしもあのとき……」のような考えに纏わりつくモヤモヤした閉塞感をスッキリとぶっ飛ばしてくれる、間違いなく21世紀最高の一曲だと言える。

 「Born This Way」の歌詞は、冒頭から以下のようになっている。

My mama told me when I was young
We are all born superstars
She rolled my hair and put my lipstick on
In the glass of her boudoir


There's nothin' wrong with lovin' who you are
She said, 'cause He made you perfect, babe
So hold your head up, girl and you you'll go far
Listen to me when I say


I'm beautiful in my way
'Cause God makes no mistakes
I'm on the right track, baby
I was born this way


 場面は、ガガが「My mama」から、「We are all born superstars(私たちはみんなスーパースターに産まれてきたの)」と諭すところから始まり、さらに「My mama」の言葉が続く。


「There's nothin' wrong with lovin' who you are/She said, 'cause He made you perfect, babe」
(あなたが何を愛しても間違っていないのよ/神様はあなたを完璧に作ったのだから)



 そして「Listen to me when I say(私の話を聞いて)」と宣言し、ここでガガに話す母親と、ファンに語りかけるガガがオーバーラップし、サビへと入っていく。


「I'm beautiful in my way/'Cause God makes no mistakes/I'm on the right track, baby/I was born this way」
(私は私の中で美しいの/だって神様は間違わないから/正しい道の上にいるのよ/この道に産まれてきたの)



 「だって神様は間違わないから」と母親の言葉を無条件に引用し、自分を信じる根拠とするこの言葉には、それを信じてずっと生きてきたガガと、その才能が華開いた現在の瞬間までが全てここに集約されている。

 「エキセントリックでおしゃべりで大胆でドラマチック」だったというガガは様々なインタビューで、幼少からつい最近に至るまで、いじめだったり敬遠されていた経験を告白している。*1

 「神様は間違わない」とは一見無根拠で気休めのようでありながら、ガガは自らが舞台に立つことで過去に打ち勝ち、その言葉が間違っていないことを見事に証明した。だからこそ、この言葉には、信じるに値する異様な説得力が詰まっている。

 そして、このあとに続くBサビ(という言葉であっているだろうか)の歌詞はこうだ。

Ooh, there ain't no other way, baby, I was born this way
Baby, I was born this way


Ooh, there ain't no other way, baby, I was born this way
I'm on the right track, baby, I was born this way


 ガガは、「there ain't no other way, baby, I was born this way(他に道なんてないの、この道に産まれて来たんだから)」とこの部分ではっきりと宣言している。「他に道なんてない」と繰り返し断言するガガの前に、「仮定法過去」の悩みは不要だ。

 その道に産まれ、その道を歩んできた。誰かに変だ、間違っていると言われても、そんなことはない。あなたがいま居る場所があなたそのものなの! だから自分を信じなさい! 私だってそうだったんだから!……この曲からは、そういった気迫を感じてしまう。

 「並行世界」に対する憂鬱は、「Born This Way」の一曲さえあればいつでも打ち勝つことができる。ガガが幼い頃、母親から勇気を貰ったように、ガガもファンたちを母親として鼓舞している(ミュージックビデオの冒頭では、「Message from Mother Monster(母なるモンスターからメッセージを)」という言葉が入る)。

 それは、次の歌詞を見てもわかる。


「Whether life's disabilities/Left you outcast, bullied or teased/Rejoice and love yourself today/'Cause baby, you were born this way」
(たとえ障害があって/無視されたり、いじめられたり、からかわれていても/今日のあなたを讃えて、愛して/だってあなたはその道に産まれたのだから)



 「もし……」なんて弱音を吐かなくても、その個性を最初から認めてくれる。そんな、あるがままの自分を無条件に受け入れてくれる21世紀究極の母性。それがレディー・ガガだ。

 そして、「もしあのとき違う選択をしていたら……」と思い悩んでしまったときは、「バック・トゥー・ザ・フューチャー」を見るのでもなく、「クォンタム・ファミリーズ」を読み直すのでもなく、この「Born This Way」を聞いて勇気をもらうべきだ。だって、「並行世界」や「ありえたかも知れない現在」など、所詮は夢物語でしかないのだから。

ポスターで判断するな! 将来出会う可能性のある男どもをしのいで、1人の女性と結婚する方法 前田弘二「婚前特急」



 決して女性だけに向けた映画ではない。


 吉高由里子演じる池下チエは、「人生は短い」との理由から、5人の男性と同時に付き合う奔放な女性だ。その男性のタイプも、年下の大学生、既婚の美容師、不動産屋のボンボン息子、パン工場で働くドン臭い男と様々。そんな生活を謳歌していたチエだったが、親友の浜口トシコ(杏)の結婚をきっかけに、「5人を査定し、最後の一人と結婚する」ことを決心する。チエは真っ先に、結婚するメリットが全く見出せない田無タクミ(浜野謙太)に別れを告げに行くが、「なんで? 俺たち、付き合ってないじゃん。でも体の関係は続けよう」と言われてしまい……。


 話はその後、チエと田無のスクリュー・ボールコメディへと様相を呈していく。物語としては、女性が「結婚とはなにか」、「幸せとはなにか」と自問自答しながら苦闘する話のように見えるが、男性にエールを送るような結婚観も詰まっている。


 5人と付き合う女性という設定はかなり突飛な状況設定のようで、そうではない。このような状況がなくても、女性は常に「男を査定」しているのではないだろうか。「査定される男たち」を、想いを寄せる女性に将来出会うかもしれない男性だと見立てると、1人の女性と結婚するにも、現実にいるライバルは5人どころの騒ぎではないことに気付く。


 前述のとおり、この映画の主人公は、チエと同時に田無だ。金、社会的地位、将来性、ルックスもほぼ全てライバルに負けている田無が、いかにしてチエに選択されるのか。それは全てクライマックスの一言に集約されているが、これが実にシンプルで感動的なので、これは実際に映画を見てほしい。


 高圧的で気分屋の吉高由里子と、鈍くて独善的であるがゆえに純粋な浜野謙太の掛け合いが後半に連れてヒートアップしていくのも見どころで、テンポのいい演出に劇場からは笑いが絶えなかった。かなりの悪女という設定でありながら、「こんな女性いるかも」どころか、「かわいい!」とまで思わせるほどの吉高由里子の演技に、必ず虜となるだろう。恋愛に悩む女性、結婚に悩む男性、年頃の世代は必見の映画だ。

新海誠の最新作は少しだけ大人。「秒速5センチメートル」で味わったあのモヤモヤに対するはっきりとした決別に感動! 新海誠「星を追う子ども」

 

 新海誠は、前作「秒速5センチメートル」でも、前々作「雲のむこう、約束の場所」でも、現代人がどこかに抱えている喪失感を描き続けてきた。その新海誠が本作「星を追う子ども」で掲げたのも、やはり喪失感であった。

 しかし、この作品が前作までと一線を画するのは、全体に彩られた「ジブリ風」な世界の描き方だろう。微細なグラデーションで魅せる背景はこれまでと変わらないが、登場する小道具や建物、登場人物の顔までがまるでジブリ作品になっているために、前作までの新海ファンは違和感を禁じ得なかったはずだ。特に、妻の「喪失」を取り返すために地下世界に踏み込む教師、モリサキは、その外見からして「天空の城ラピュタ」のムスカそのものと言っていい。そしてこの物語は、流されるままに地下世界に足を踏み入れる主人公・アスナを置き去りにして、明白な目的を持つモリサキを中心に進行していく。

 劇中では、死別や決別を含めた様々な形での喪失が描かれる。特にアスナに懐いていた猫・ミミとの別れを嫌がるアスナに放つ、モリサキの「(別れを)受け入れなさい」という言葉は、「受け入れられない」モリサキ自身の姿と大きく矛盾しており、最終盤まで違和感を残す。この、モリサキが抱える「喪失を受け入れることが正しいと感じながら、それでも受け入れられない自分が向かう衝動」こそが、新海誠の創作意欲なのだろう。

 「喪失を取り戻す旅」という位置づけであるならば、この作品は「雲のむこう、約束の場所」の物語と近い。違いがあるとすれば、「秒速5センチメートル」で喪失感を膨らませるだけ膨らませたまま迷宮に入ってしまった後に作られたものということだ。

 「秒速5センチメートル」の主人公は、神話の本を読み耽っていたという描写がある。モリサキもまた、神話に異様に固執している人物である。この人物たちが監督自身の投影だとするならば、「秒速5センチメートル」では「喪失感」に対する答えを全く出せなかった主人公に、もう一度「喪失とは何か」を追い求めさせたかったのだ。

 だからこそ、モリサキが矛盾を抱えながら、その喪失に対して追求に追求を重ね、その先の極限まで突き詰めた結果は、「あの新海誠がついに答えを出した!」という一点において、大きな感動につながっている。

 「ほしのこえ」で宇宙、「雲のむこう、約束の場所」で空、そして「秒速5センチメートル」では目線が地上になり、ついに「星を追う子ども」では地下へと潜っていった新海誠が、かつて「天空の城」に憧れたムスカ像(モリサキ)に妙に重なってしまうのは、偶然なのだろうか。目的に対する真っ直ぐな行動は共通しながら、支配を手中にしようとして死んでいったムスカに対し、喪失を受け入れて生き延びるモリサキ。オマージュを捧げるにしても、決して悪役に徹し切らせていない。新海誠の、風が吹いたら消し飛んでしまいそうなナイーブさが、ここによく表れている。

ディズニー版スクリューボール・コメディは「変化」と「絆」と「復活」の傑作物語! バイロン・ハワード&ネイサン・グレノ「塔の上のラプンツェル」



 ディズニー・クラシックス50作品目にしてプリンセスストーリーである「塔の上のラプンツェル」は、間違いなく傑作として語られるべき作品だった。


 18年間もの間塔の中に閉じ込められている20mの金髪を持つ少女、ラプンツェルは、忍びこんできた盗賊、フリン・ライダーとの出会いをきっかけとして、“自分の誕生日に毎年上がっていく無数の灯りを近くで見たい”という夢のために外の世界へと飛び出していく。ディズニー版スクリューボール・コメディ(クセのある男女がドタバタを繰り返しながら恋におちて、結局は丸く収まるという1930年代から40年代のハリウッド映画で流行ったジャンル)と言ってもいいテンポの良さは、往年のプリンセスストーリー、「或る夜の出来事」を彷彿とさせている(原題「Tangled」が「からまる」、「こんがらがる」という意味を持っていることからも、騒がしさがウリのスクリューボール・コメディを意識していることが推測される)。




■ 「女の業」と「親の勝手なワガママ」が結びついた魔女・ゴーテル


 さらに、長い金髪の理由を「時を戻す魔法」によるものとし、魔女・ゴーテルがそれを利用するためにラプンツェルを塔に閉じ込めているという原作からの設定の改変は、現実的な親子関係(特に母と娘)を考えさせるものとして、物語に大きな深みを与えている。


 ゴーテルは生まれたてのラプンツェルを親(王様と王妃)から盗み、人間としての寿命をとうに越えながら、ラプンツェルの髪の力で若さを保っている。重要なのは、ゴーテルが若さへ執着するがゆえに、ラプンツェルを大事に扱っていることにある。ゴーテルにとって、ラプンツェル(の髪)は命そのものだ。多少の嫌味は言うものの、取りに行くのに3日かかる「貝の絵の具」のプレゼントをあっさり承諾するなど、完全な悪とは言いづらい(映画の最後にようやく、「悪になろうじゃないの」と言って悪になる)。「シンデレラ」には継母が、「ノートルダムの鐘」にも同じような設定のフローロが出てくるが、彼・彼女らと決定的に違うのは、ラプンツェル(子)を失うことがゴーテル自身(親)を失うことと同義になっており、それがゴーテルを究極的に母親にさせている点にある。「外の世界は怖い」「男は恐ろしい」「あなたが大事なの」というセリフを連発するゴーテルは、自分の都合によって子を縛り付けているワガママな親の姿に過ぎない。


 一方で、ラプンツェル自身も魔法の髪の力を教えられていて、それがゆえに身を守っている(ことにしている)ゴーテルを理解しているしに心を寄せているところが興味深い。言ってしまえば、退屈であることを抜きにして、ラプンツェルの身は完全に保証されている。ラプンツェルにとってもゴーテルは結局のところ唯一の心の支えなので、「”灯り”を見に行くこと」が「ゴーテルを裏切ること」にいかに勝っているかをどう描くのだろうかと思っていたが、塔の脱出直後で、躁と鬱を繰り返すラプンツェルを見せ、「葛藤しながら、それでも前に踏み出していく」とすることでこの問題を解決している。新しいことへ挑戦することの決して単純ではない感情のゆらぎを、テンポよく、しかもギャグとして描いているので邪魔に感じないし、説得力も増すことに成功している(ラプンツェル本人の「複雑なのよ」という言葉が素直に納得出来るのはそのためだ)。無駄のないこの演出には、思わず膝を打った。「ラプンツェル」は、そんな親の敷いたレールに疑問を持ち、葛藤を繰り返しながら自立していく話でもある。




■ 見た目の関係なしに繋がっている絆に感動


 ラプンツェルの金髪も印象に残るが、この金髪が遺伝的なものでないという点にも留意しておきたい。王様、王妃とも髪の色はブラウンだ。つまり、普通に考えればラプンツェルもブラウンの髪なはずなのだが、「魔法の花」のスープを妊娠中の王妃が飲んでいたために、髪は金髪になったという設定になっている。


 「髪」というのは、その人を象徴する、言わばアイデンティティの塊だ(特に女性にとっては重要な意味を持つだろう)。ラプンツェルが幼くして誘拐されて以来、街の外壁には両親と金髪の幼いラプンツェルが大きく描かれ、ラプンツェルの誕生日には国中から彼女への思いを込めた“灯り”が上がる。つまり、王室を含めた国中が「ラプンツェルは金髪」と思っているはずなのだ。


 ラプンツェルは王妃と再会する前に、フリンことユージーンに髪の毛をばっさりと切られる(これは驚いた!)。ラプンツェルにしてみれば、その長い金髪は、自他共に認める、ほとんど唯一と言ってもいいアイデンティティだったはずだ。しかし、髪を切られたことでボサボサのショートカットになり、茶色になり、魔法の力さえなくなってしまった彼女が王妃に会ったところで、彼女が本物の娘だと認めてもらえるのだろうか。王妃と再会した瞬間のラプンツェルは、かわいそうなくらい不安でいっぱいな表情をしている。


 ところが、それが実にあっさりと受け入れられるのである。それもすぐに。一点の曇りもなく、「髪の色はどうしたの?」という質問もなく。いくら顔が似ているからと言って、一体これはどういうことなのだろうか?


 王妃にとっては、そんなの関係なかったのだ。いくら髪の色が変わっていて、ボサボサで、みすぼらしい姿であったとしても、見た瞬間に「娘だ!」とわかったのだ。外見などを飛び越えて、この本当の母娘は深いところで繋がっていたのだ。




■ 一度「死んで」、そこから手に入れる未来こそ「希望」


 新しい世界に、まさに一歩飛び出すことで夢を果たし、その過程で考えもしなかった幸せをつかむラプンツェルに、共感する人も多いだろう。長い長い金髪を背負ったラプンツェルももちろんかわいらしいが、その長い髪は彼女の「過去」からずっと背負ってきた窮屈さの象徴でもある。塔を飛び出し、さらに髪の毛まで切り落とした後のラプンツェルは、憑き物が落ちたかのように(実際に魔法という名の呪いは解けた)、実にさっぱりとしているではないか。ラプンツェルは髪を切られることで精神的に死に、ユージーンは実際に死ぬ。そうしていままで背負っていたものをいったん全て捨て去ってしまうことで、新しい世界を作っていけるのだというストーリー構成は、本当に未来への「夢と希望」を感じられる。


 その他、見た目は怖いがそれぞれかわいい夢を持っている「荒くれ者たち」(夢と外見は関係ない)、異様に賢い馬・マキシマスや、ディズニー作品には必ずと言ってもいいほど登場する主人公のパートナー、カメレオンのパスカルなど脇役も表情豊かで楽しい。


 日本語吹き替え版では中川翔子さんがハマリ役と言える演技で奮闘しているし、音楽では「リトル・マーメイド」のアラン・メンケンが、2010年度アカデミー賞主題歌賞ノミネートという健在ぶりを見せている。


 「ローブをまとった老婆」、「片手がフックの男」などといった、過去ディズニー作品へのオマージュもたくさん(ピノキオもどこかに登場しているらしい)あるので、ディズニーファンも、そうでなくても、全世代が楽しめる作品だ。こうしてディズニー・クラシックス50作目の記念作品から、夢と希望に満ちた新たなプリンセスが誕生したことは、ディズニーファンとして純粋に嬉しい。

これを不条理で変な話だなと笑う人は、映画をよーく見た方がいい ジョエル・コーエン/イーサン・コーエン「シリアスマン」



 映画の冒頭で、ラシ(ユダヤ教聖典学者、シュローモー・イツハーキー)の、「身に降りかかること全てをありのままに受け入れよ」という言葉が表示される。
 敬虔なユダヤ教徒であり、どこまでも真面目な男(シリアス・マン)の主人公に、突如として不幸が連続で降りかかってくる。妻からは離婚を言い渡され、しかも不倫相手は自分の知り合い。この二人に家を追い出されてモーテル暮らしになってしまう。さらに、落第しかけの韓国人の生徒からは賄賂を渡されて、それを断ると親から「名誉毀損だ」と訴えられる。
 そこで彼はユダヤの宣教師「ラビ」に助けを求めに行くが、具体的な指示をくれるどころか、適当な話をされて逆に困惑してしまう。そこで彼が叫ぶのは、「答えをくれ!」という言葉だ。


 この主人公は、あまりに真面目な信者であるがゆえに、冒頭の言葉どおり身にどんな災いが降りかかろうとも能動的に解決しようとは思わない。いくら困っても、いくら悪夢にうなされようとも、神が救ってくれると信じているからだ。
 映画では理不尽なことが彼ばかりに起きているように感じるが、実はそうではない。妻の不倫相手だって理不尽に死ぬし、土地専門の弁護士も理不尽に死ぬ。言ってしまえば、理不尽な不幸は映画の中で平等に起きている。この映画の可笑しみは、彼が自分の身を本気で守ろうとしていないことにある。
 彼は賄賂を渡してきた韓国人学生に「結果の前には行動がかならずある」と言っていたが、まさにその通りなのだ。身に降る火の粉を払わない限り、彼の尻には火が付き続ける。


 コーエン兄弟いわく、冒頭に出てくる5分ほどのエピソードは本編とは関係の無い独立したストーリーとのこと*1だったが、ここで表れてくるのも、「聖書をまるっきり信じていたがゆえに、聖書学者を殺しかけてしまった」という皮肉話だ(ちょっとした情報の行き違いから人が死にかけるあたりは実にコーエン兄弟らしい)。

 他にも、儀式を仕切るくらいの偉いユダヤ教徒が、旧約聖書が破れているのを見てつい「ジーザス・クライスト!」と悪態を吐いてしまう(本筋のユダヤ教ではキリストの存在は認められていないらしい)など、宗教に関する皮肉がたっぷりの作品が「シリアスマン」だ。

 ラスト、父親にある電話が入る一方で、主人公の息子には、嵐という災難が目の前にせまっているシーンで映画は終わっていく。この後彼は、父親と同じように、運命を受け入れて何も行動を起こさないのだろうか? ロックもハッパもやっているその息子は、コーエン兄弟のモデルでもある。つまり、「そんな馬鹿な話ないよね」ということが、この映画の結論なのだ。

真の怖さは狭い視野における無知にある 中島哲也「告白」



 この松たか子、怖いほどに恰好いい。
 未成年が引き起こした殺人事件とその後を巡る告白。冷徹に努めることで狂気を押し込めたかのような松たか子の演技もさることながら、次々に語られる告白によって歪んだ人物像が吐露されていくのも、「こんな現場に絶対居合わせたくない」と思うほどに恐ろしい。モノローグでしかストーリーが語ら得ず、神の視点で傍観する観客と松たか子だけしか全容を把握できない(当事者に近づくほど翻弄されてしまう)絶望感が痛々しく心に突き刺さる。
 一貫して溢れてくるのは、陰湿な狡猾さと無知への憎しみだ。
 基本的に「良いこと」風の発言や行動はだいたいが建前だけのものだし(励ますフリでその実悪意しかない色紙はまさにその象徴)、熱血を気取った教師が空回りするアホらしさや、森口悠子の言葉を真に受けて狂気へと落ち込む下村直樹、「HIVは怖い」と思い込むだけで思考停止する生徒たち。映画のここのテイストを嫌悪する人もいるだろうが、それはここに登場する人物たちに限った話ではない。他の方法を知らず、知恵を絞らず、狭い世界でしかモノを見ていないのは私たちでないと誰が言い切れるだろうか?
 最後には「デスノート」にも見られたような知恵比べにもつれ込み、観客は一応のカタルシスを得る。
 嗚咽を漏らす弱さを抱えながら、どんな手段を使っても復讐を果たそうとする松たか子の行動は、実にクールだ。
 中途半端な非情さをまとった殺人者を追い詰めるために自らも非情にならざるを得なかった松たか子は、決して正義としては描かれていない。それでも意志を完遂させる姿に惹かれてしまうのは、通常では勝ち得ることのできない信念と精神を、松たか子が滾るような演技で再現しているからだろう。

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