新海誠の最新作は少しだけ大人。「秒速5センチメートル」で味わったあのモヤモヤに対するはっきりとした決別に感動! 新海誠「星を追う子ども」

 

 新海誠は、前作「秒速5センチメートル」でも、前々作「雲のむこう、約束の場所」でも、現代人がどこかに抱えている喪失感を描き続けてきた。その新海誠が本作「星を追う子ども」で掲げたのも、やはり喪失感であった。

 しかし、この作品が前作までと一線を画するのは、全体に彩られた「ジブリ風」な世界の描き方だろう。微細なグラデーションで魅せる背景はこれまでと変わらないが、登場する小道具や建物、登場人物の顔までがまるでジブリ作品になっているために、前作までの新海ファンは違和感を禁じ得なかったはずだ。特に、妻の「喪失」を取り返すために地下世界に踏み込む教師、モリサキは、その外見からして「天空の城ラピュタ」のムスカそのものと言っていい。そしてこの物語は、流されるままに地下世界に足を踏み入れる主人公・アスナを置き去りにして、明白な目的を持つモリサキを中心に進行していく。

 劇中では、死別や決別を含めた様々な形での喪失が描かれる。特にアスナに懐いていた猫・ミミとの別れを嫌がるアスナに放つ、モリサキの「(別れを)受け入れなさい」という言葉は、「受け入れられない」モリサキ自身の姿と大きく矛盾しており、最終盤まで違和感を残す。この、モリサキが抱える「喪失を受け入れることが正しいと感じながら、それでも受け入れられない自分が向かう衝動」こそが、新海誠の創作意欲なのだろう。

 「喪失を取り戻す旅」という位置づけであるならば、この作品は「雲のむこう、約束の場所」の物語と近い。違いがあるとすれば、「秒速5センチメートル」で喪失感を膨らませるだけ膨らませたまま迷宮に入ってしまった後に作られたものということだ。

 「秒速5センチメートル」の主人公は、神話の本を読み耽っていたという描写がある。モリサキもまた、神話に異様に固執している人物である。この人物たちが監督自身の投影だとするならば、「秒速5センチメートル」では「喪失感」に対する答えを全く出せなかった主人公に、もう一度「喪失とは何か」を追い求めさせたかったのだ。

 だからこそ、モリサキが矛盾を抱えながら、その喪失に対して追求に追求を重ね、その先の極限まで突き詰めた結果は、「あの新海誠がついに答えを出した!」という一点において、大きな感動につながっている。

 「ほしのこえ」で宇宙、「雲のむこう、約束の場所」で空、そして「秒速5センチメートル」では目線が地上になり、ついに「星を追う子ども」では地下へと潜っていった新海誠が、かつて「天空の城」に憧れたムスカ像(モリサキ)に妙に重なってしまうのは、偶然なのだろうか。目的に対する真っ直ぐな行動は共通しながら、支配を手中にしようとして死んでいったムスカに対し、喪失を受け入れて生き延びるモリサキ。オマージュを捧げるにしても、決して悪役に徹し切らせていない。新海誠の、風が吹いたら消し飛んでしまいそうなナイーブさが、ここによく表れている。