大人が格好よければ子供はグレない! 90年代のリトル「重力ピエロ」 デニス・デュガン「プロブレム・チャイルド うわさの問題児」



 90年アメリカ。
 この時期に流行したキッズ・ムービー、「キンダーガートン・コップ」や「ホーム・アローン」の原点とも言える作品。子供が仕掛ける行き過ぎたいたずらにお手上げの大人を笑うストーリー仕立ては確かに「ホーム・アローン」で昇華した。
 主演のマイケル・オリバーくんを取り囲む出演者が終始キャーキャーうるさいのがひとつの難点で、映画史に埋もれたジャンク・ムービーのひとつかと思いきや、これが意外に良作だった。

 子供のイタズラはたいがい可愛い(と思われている)ものだが、それが先天的に度を越していたらどうなるか。物語は、生まれたばかりの主人公が見知らぬ家の玄関先に捨てられてしまうところから始まる。「こんな可愛い子を誰が捨てるのかしら」と微笑みかける淑女の顔におしっこを引っ掛けて怒らせ、違う家では猫のエサ入れに中性洗剤をぶち込み、金魚を掃除機で吸込み、さらに違う家ではショベルカーのおもちゃを壊された腹いせに、トレーラーハウスを本物のショベルカーでぶち壊す。様々な家をたらい回しにされたあげく、行き着いた施設の修道女にすら「悪魔の子め!」とダミアンばりに非難される主人公は、「みんな僕のことなんか嫌いなんだ!」とすぐに自分を捨てる大人に対して怒りまくっている子供なのだ。
 その象徴として、ジュニアは「俺は悪くない! 世の中が冷たいだけだ!」と叫ぶ連続殺人犯のトレードマークを真似て蝶ネクタイをつけ、さらに修道院の「有名人に手紙を出そう」という授業でこの殺人鬼に手紙を出す。

 この主人公・ジュニア(なんと適当な名前!)の怒りの理由が描かれているからこそ、どんなイタズラにも意味が与えられ、彼を引き取ることになるベンとフローの夫妻(ジョン・リッター、エイミー・ヤスベック)との話が深みを増してくる。

 ベンはベンで父親からも見下され、近所の友人からも馬鹿にされている善人だ。フローも父親もイタズラがエスカレートするジュニアのことを忌み嫌い、他の家と同様に突き返そうとするが、ベンだけはいつまでもジュニアを可愛がり続ける。

 映画のクライマックスは、ベンと脱獄した連続殺人犯の対決へともつれこむ。ジュニアが出した手紙を頼りに、犯人が家にやってきたのだ。
 犯人はジュニアと夫人を誘拐し、ベンに金を要求する。ジュニアが引き起こした最悪の事態にさすがのベンも堪忍袋の緒が切れて、ジュニアの部屋をひっくり返す。「結局最初からなにもかもがダメだったんだ! 全ては無駄だったんだ!」と。机の中を見ると、ジュニアが書いた家族の似顔絵が見つかる。そこでは、ベンの父親が怪獣として描かれ、フローは口が異様に大きい化けものになっていた。呆れて失笑を漏らすベンが次の紙を乱暴に取り出すと、そこには「Mr Healy」という文字とともに、優しい顔をした男性が描かれていた。ベンの思いは、ジュニアに通じていたのだ。
 そしてラスト、ジュニアは殺人犯と決別することで、ベンを「パパ」と初めて呼ぶ。
 
 この映画は、ジュニアの心がほぐれていく過程を見せることで、ベンの父親としての成長を描いている。自立しきれていなかった父親や近所の友人に反旗を翻し、自分が本当に求めるものを取り返しに立ち上がるベンは、実にいい顔をしているではないか。
 「プロブレム・チャイルド」は極めて小さな作品だが、家族の絆をDNAを越えて描いた「重力ピエロ」にも繋がるようなさわやかさを感じさせている。知名度こそ低いかも知れないが、問題児だからと馬鹿にしていると、そのイタズラに思わず唸ってしまうなかなか侮れない作品だ。

残酷な三角関係の成れの果て ミケランジェロ・アントニオーニ「夜」 

 1961年に公開された「夜」
 「愛の不毛」とも評されるミケランジェロが、ある夫婦(マルチェロ・マストロヤンニジャンヌ・モロー)の倦怠と欲求不満を描いている。映画は、夫婦の共通の親友(ベルンハルト・ヴィッキ)ががんによって死にかけている場面から始まる。この最初のシーンが実は伏線になっていて、映画全編を覆っている夫婦間の倦怠感も欲求不満も、すべてこの三人の関係性の中にあったことが、女の方から暴露されるところで映画は終わっていく。
 タイトルにある「夜」とは、親友の死と共に夫婦関係が崩壊したある一夜のこと。終焉を感じながら、それでも寄りを戻そうとする男とそれを拒み続ける女の姿は虚しさしか感じない。そんな夫婦とは関係なく明けていく空との対比も見事。
 マルチェロ演じるジョヴァンニがパーティ先の令嬢(モニカ・ヴィッティ)に、まるで運命的かのように惚れてしまうが、明らかに情緒不安定な病室の女(結構かわいい)に求められれば、あっさり受け入れてしまう描写もしっかり挿入されているところにこの男の悲しさがある。
 迫ってくる女が気に入らなければ適当なつくり話(「ツァラトゥストラはかく語りき」の改変バージョン)をして受け流すあたり、ジョヴァンニはかなりのムッツリ野郎だ。
 ゆえに、愛が不毛なのではなく、こんな男になびいてしまったジャンヌ・モローが迂闊だったと言えるだろう。三角関係の成れの果ては、やり直すには遅すぎ、諦めるには早すぎた。この男女関係の宙吊り状態をスクリーンに放り出す残酷さこそが、ミケランジェロの真骨頂だろう。

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失笑を免れることはできない! 世界公開マジでやるの? 「SPACE BATTLESHIP ヤマト」


※このエントリーは大いにネタバレを含みます。閲覧の際はご注意ください。

西暦2199年、突如侵攻してきた謎の敵・ガミラスによって、人類はその存亡の危機に瀕していた。人類の大半は死滅し、生き残ったものも地下生活を送っていた。ある日、地球へカプセルか落下してきた。それは惑星イスカンダルからの通信カプセルで、そこに行けば、放射能浄化装置があるという。人類最後の希望を乗せて、最後の宇宙戦艦“ヤマト”がイスカンダル目指して旅立つ。しかし、行く手にはガミラスの艦隊が待ち構えていた。     ―――goo映画より引用

 「SPACE BATTLESHIP ヤマト」。12/1の公開日に観てきたのだが、「日本人が初めて世界に挑むSFエンターテイメント」とするには片腹痛いほど失笑ものの作品だったので、ここに記録として残しておきたい。監督は「三丁目の夕日」で日本アカデミー監督賞を受賞した山崎貴
 この映画、何が問題かと言うと、とにかくVFX以外の部分があまりにしょぼすぎるのだ。これはどう考えても予算の問題なのだろう、全ての諸問題をVFXで解決しようと粉骨砕身した結果、ストーリーやキャラクターやセットがあまりにおろそかにされているのだ。


・セットのしょぼさにまず驚く

 映画の大半を占める舞台は、当然ヤマトのコクピット部分になる。が、その第一の感想は「せまっ!」そして「しょぼっ!」の二点。はっきり言ってディズニーランドのスターツアーズの方がよっぽど宇宙と未来を感じさせるほど古臭い、全然ワクワクしないセットの中で話が進んでいくのだ。VFXでは超巨大な「ヤマト」が、あの司令部の狭さで制御されているとは到底思えない。しかも、出てくる艦内の廊下や部屋がいちいち狭く、劇中の閉塞感は計り知れない。セット中一番広い出撃倉庫は、戦闘機一機を登場させるのが精一杯だったようだ(その戦闘機もVFX以外で全体が映ることはない)。だから戦闘中の会話もずっと同じ角度からのカメラ(明らかに撮影用にその部分しか作ってないんだろうなと思わせるもの)で面白くない。違和感はまずセットから醸し出されていると言っていい。


木村拓哉の出だしは良かったのに……

 木村拓也の初登場シーンが、ハートロッカーよろしく宇宙からの落下物の衝撃に巻き込まれてボロボロってのはかなり良かった。「え、こんなやつがこの後主人公になってくの? マジで?」な感じはかなりワクワクした。黒木メイサにもカウンターパンチをもらって踏んだり蹴ったりの木村拓哉、この後一体どうなるんだ! と思っていると、次に登場したときにはいきなり戦闘班の班長で、なぜか司令部の先頭にいる。 「WHY???」の文字が頭に浮かぶのもつかの間、木村拓也はいつもの「キムタク」演技に戻っていた(目上の人にはずっと敬語を使っていたのは好感が持てた)。帰ってきた途端にやっぱりパイロットとしても凄腕で、しかも砕けた人物で部下からの信頼は厚いとにかくすげーいい奴ってことになってる(出戻りで戦線からしばらく離れてたのに)。艦長命令を無視して黒木メイサの命を救ったあと、西田敏行扮する機関長に「自分が正しいと思うことをすると何故か怒られるんですよ」と言うセリフはもはやテンプレ。「HERO」あたりからずっとそれですよね……の声は届くわけもなく、沖田艦長(山崎努)の「なぜ乗ったんだ」の問いかけには「兄貴を見殺しにした沖田艦長がどんな男か見てみたかったんです」の返答。いや、地球救えよ! 地球の存亡がかかってるってときにとんだ私情を挟みやがったな! そんな心持でよく乗り込めたよ! というわけで艦長代理の威厳は全くなし。これ以後も「地球の命運を託された人たち」とは思えない言動が続出します。
 一応、古代が艦長としての沖田の意思を引き継いだと思われるイスカンダル手前、古代の「暗闇の中のわずかな光だとしても我々は可能性を本物の希望に変えよう! 地球に残してきた人々の為に、全力で成し遂げるんだ!」という見せ場が終盤にある。この激励によって全乗組員は敬礼をもって気合を入れ直す、という場面だ。映画としての盛り上がりの頂点もどうやらここで迎えているようだが……。でもさ、ヤマトって発進してからずっとそういうことだったじゃん……。どっちかって言うと出発前に言うセリフじゃねえのそれ……今までそう思ってなかったの……。決め台詞もいまいち感情移入できないのが日本式のSFエンターテイメントなのだ!



・失笑必至! これはもはや「目の前のことで頭がいっぱいになっちゃう」という現代病だ!

 ツッコミどころとしてはイスカンダルのシーンも挙げられるだろうが、ここは書く気も失せるほどどうでもいいので割愛。少しだけ書くと、アルマゲドンスターウォーズスターシップ・トゥルーパーズを合わせて死ぬほど都合よくした感じでした。ギバちゃんの死に方は良かったよ。以上。
 で、そんなことよりも最大級の失笑場面は最後の地球帰還直前のところ。放射能除去装置も持って帰ってきて「これで地球が助かるんだ……」と見せかけたところでデスラーが登場、「我々は地球を諦めるが諸君らにも地球は渡さない」と言って地球に崩壊クラスの爆弾を投下する。波動砲ガミラス側に発射口を塞がれたままで撃てない。このままでは地球が崩壊してしまう! 一刻の猶予もない! どうするんだ古代進! という場面。
 「波動砲は打てないのかよ!」と乗員に掴みかかり、「艦長に指令を出してもらう」と走りだすも高島礼子扮する佐渡先生にゆっくりと首を振られ「そんな……まさか……」と艦長の死を悟りうなだれる木村拓哉。「考えろ、考えるんだ……!」とそこでようやく考えはじめる木村拓哉! そして彼が出した結論は、ヤマトと波動砲ごと爆弾と共に消滅するという、地球を救うために自らを犠牲にする道だった! 総員退避の命令を出す木村拓哉! ざわめき立てる乗組員を制する木村拓哉! 
 と、ここまではまだ良かった。「そうか、このまま散っていくのか古代よ……。」と思っていたらそうじゃなかった。なんと、この後黒木メイサの「あなたがいない世界に生きる意味なんかなぁいのぉぉぉ〜〜! 一緒に死ぬのぉぉぉ〜〜!」というマジで「聞き分けのない」ワガママによって場面は強制的に「別れる前にその辛さをコンコンと語り合う二人」状態のクソみたいなラブシーンに持ってかれる。しかもこれが5分くらい。目の前の重大な切羽詰った危機が急にどうでも良くなっちゃって二人で話しだすってのは、海猿2がニューヨーク試写会で失笑を食らった有名な場面にそっくりじゃないか(海猿2は見てないけど)。おかげで観客の爆弾投下に対するハラハラ感が本当に台なし。お前ら地球が滅亡することとか本当にどうでもいいんだな! ってな感じではっきり言って私も失笑。「目の前のことで頭がいっぱいになっちゃう」というのは邦画における現代病だと言える。海猿2の噂は監督の耳に入らなかったのだろうか。しかし、なぜこの場面を入れたのか……。


・「SPACE BATTLESHIP ヤマト」は「ヤマト作品」の文脈で語ってはいけない

 ツッコミどころ満載のストーリー展開は、原作もそうなのだからそれはそれでいいのではないか、という意見をよく見かける。だとしたら、そんな内輪ネタだけのためにつくられた映画になんの価値もない。だいたい、「世界に挑む」などと豪語しているのは、宇宙戦艦ヤマトの原作を知らずにこれを見る人を想定しているからではないのだろうか(逆に海外にいる宇宙戦艦ヤマトファンはこれを見てどう思うのだろう)。恐らく目指していたのは日本版のアルマゲドンであったのだろうし(スティーブン・タイラーが主題歌を歌っているところからも明らか)、それが成功しているかどうかは別として、「SPACE BATTLESHIP ヤマト」は「ヤマト作品」ではなく、れっきとした「邦画」の文脈として語られるべきものだ。
 TBSで放送していた「ヤマト」の宣伝番組の中で「ダメかもしれないけどあきらめないでやることを伝えられたら」と、絶望の中発進するヤマトとその乗組員になぞらえて話していた山崎監督は、自らもハリウッドに勝てるわけのない予算の問題(ダメかもしれない)を、VFXを駆使することでなんとか一矢報いること(あきらめないでやる)で、そのメッセージを体現していたと言える。もし世界公開を本気で進めようとするならば、VFXもセットもストーリもキャストも含めて、日本がハリウッドを意識した映画を作るとこれが限界という指標を、よくも悪くも世界に提示することになるだろう。


「SPACE BATTLESHIP ヤマト」オリジナル・サウンドトラック

「SPACE BATTLESHIP ヤマト」オリジナル・サウンドトラック

上戸、ベッキーに代わる新CM女王はセントラル子供タレント所属の石井萌々果だ!

 先日こんなCMを見ていたんです。





 ランドセル背負った女の子の笑顔があまりにカチッと決まっている上、慣れた調子でハキハキとしゃべるので、「こんな年からこんな感じで喋らされるなんて最近の子役も大変だなあ」くらいに思ってたんです。で、ぼーっとしながらテレビを見ていたら、こんなCMを見たんです。





 「あれ、同じ子じゃね?」って思ったんです。
 それでもまあ二本くらいなら見かけるくらい不思議じゃない。あれだけはっきり喋れるし、ブレンディの女の子は結構前から登場しているしそういうこともあるかなって思ってました。そんなことを考えていたらこんなCMを見たわけですよ。





 「あれ、同時期(2010年11月時点)に3本も出てんの?」って思ったんです。
 しかもこれ、それぞれ「きっちり笑顔でしっかり説明」「原田知世を引き立てる自然な問いかけ」「室井滋に負けない顔芸」と全く違う役割を正確にこなしているのです。
 「一体何なんだこの子は!」と僕の琴線にきっちり触れていきましたので、調べたところ、セントラル子供タレント所属の石井萌々果さんだと判明いたしました。ちなみにセントラル子供タレントのプロフィールはこちら
 テレビ朝日系の「マイガール」出演後、2009年度「第13回日刊スポーツ・ドラマグランプリ(GP)」の秋ドラマ選考助演女優賞を受賞。*1、「※最近、本人を装って、ブログを開設している人が居ますが、本人とは一切関係ありません。」*2というあたり、かなりの人気者であることも判明。
 他にも絶対CM出てると確信したので、調べたところ、あったあった。







 最近の主だったものを挙げると、

ツムラ ソフレお肌相談室(2008 - 2009年)
江崎グリコ 2段熟カレー(2009 - 2010年)
・AGF ブレンディボトルコーヒー(2009年)
キヤノン PIXUS 今ドキ!ならPIXUS年賀状編(2009年)
ケンタッキーフライドチキン うごくピーターラビット篇(2009年)
アリコジャパン 保険ガイド(2010年)
セイバン ランドセル 天使のはね(2010年)*3

 やはり、ドラマ出演直後の2009年から急激にCM出演が増えている模様。っていうかCM出すぎじゃね……?
 そして私は確信しました。彼女は歴代で一番若いCM女王であると! 
 彼女は今後、どんな注文にも正確に応えていくという、ベッキーよりも上戸彩よりも堀北真希よりも主張しない、カメレオンCM女王として君臨するに違いないのです!

 とそんなわけで、このブログは石井萌々果さんを全面的に応援していきます。以上。




マイガール DVD-BOX (5枚組)

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PS3「HEAVY RAIN」 映画以上の「感情体験」を仕込んだ「映像作品」

>>アメリ東海岸のとある都市。
不幸な事故から、息子を失い、心に傷を負った父親イーサン(Eathan)。
不可解な記憶喪失に悩まされ日常生活に復帰できないまま、
彼の家庭は崩壊しきっていた。 ――「HEAVY RAIN」公式サイトより抜粋

究極の全年齢向け映画 トイ・ストーリー3

※このエントリーは大いにネタバレを含みます。観たことを前提に書いておりますので、閲覧の際はご注意ください。

トイ・ストーリー自体を否定しかねない予告編の衝撃


トイ・ストーリー3のオフィシャルサイトに掲載されているストーリー説明の書き出しはこうだ。

<おもちゃにとっての"最高の幸せ"は、子供たちと過ごす楽しい時間。だが、それは永遠には続かない。子供はやがて成長し、おもちゃを必要としなくなる日が来るからだ。>


ここからもすでにわかるように、シリーズを通して登場していた持ち主、アンディとの別れがこの映画の大きなテーマになっている。
映画館で初めてこの予告編を見たとき、否応もなく衝撃を受けた人は大勢いるだろう。
アンディの成長。それはトイ・ストーリーにとってタブーだったはずである。確かに、2の終わりでは「その日」の示唆はあった。が、トイストーリーはやはり寓話だ。ファンタジーだ。
おもちゃにとって死を意味する「その日」に真正面から取り組むという宣言でもあった予告編は、明るく精一杯生きることを教えてくれたウッディたちが画面の中で永遠に生き続けているとどこかで思っていた我々に渾身の右ストレートを浴びせたのである。
これは効いた。観客はアンディの成長した姿をまともには見れない。もともとこのトイ・ストーリーは、「もしもおもちゃが動きだしたら……」という空想から始まった話だ。おもちゃが動き出すからファンタジーになっていた。現実を忘れるから楽しめた。
このトイ・ストーリー3は、持ち主アンディとの関係性の中で、おもちゃの死という現実を、成長したアンディを登場させることでわざと残酷に見せつけている(しかも予告編で。それはおもちゃたちが一番危惧していたことだ)。だから我々はこの予告編には驚くし、目を逸らさずにはいられない。



トイ・ストーリー3における主人公はウッディたちではない



簡単にトイ・ストーリー3ののあらすじを振り返っておく。

「おもちゃのウッディやバズと楽しく遊んでくれたアンディも、いまや17歳。大学に進学するため、家を出ることになった。だが屋根裏部屋にしまわれるはず だったおもちゃたちが、ちょっとした手違いからゴミ捨て場に出されてしまう。どうにかゴミ袋の中から逃げ出したものの、アンディに捨てられたと誤解したおもちゃたちは大ショック!! 仕方なく、託児施設に寄付される道を選ぶ。だが「また子どもたちに遊んでもらえる!」と喜んだのも束の間、そこにはモンスターのような子どもたちにもみく ちゃにされる、地獄の日々が待っていた…! 」 goo映画より引用

このトイ・ストーリー3は二つのストーリーによって成り立っている。一つは、上のあらすじにも示されているような、おもちゃたちの冒険活劇である。これはおもちゃたちが刑務所と化した保育園から逃亡を図るというもの。そしてそれに覆い被さるようにしてあるのが、もう一つのストーリー。それが予告編で観客に衝撃を与えたテーマ、おもちゃと持ち主の別れである。
このストーリーがストーリーを覆っているという二重構造こそが、この映画の鍵だ。ここをよく注意して欲しい。ロッテントマトで99%の高評価を得るという驚異的な数字に裏付けされた魅力も、これに繋がっている。
ここで仮に、前者のストーリーを子供モード、後者を大人モードと呼ぶことにする。子供モードは子供にもきっと理解できる話(筆者は子供ではないのでここは完全な想像だが)、大人モードは大人であればさらに理解できる話、という認識である。
より具体的にその違いを示せば、そのスタートは両モードとも共通で映画の最初になる。子供モードは焼却場から生還するまでで終わり、大人モードはラストにアンディがおもちゃを譲り渡すまで続く。
トイ・ストーリーの主人公といえば、もちろんウッディとバズ・ライトイヤーである。ウッディたちはロッツォという困難に、あきらめない心と団結によって「地獄の日々」に立ち向かう。しかし、これは「子供モード」における話だ。この映画の全体を覆うストーリー、つまり「大人モード」では視点が変わってくる。すなわち、主人公はウッディたちではない。そう、それは、アンディなのだ。
このことについては映画の冒頭からも推察出来る。映画の始まり、トイ・ストーリーの主要キャラが総出演するアクションが繰り広げられる。Mr.ポテトヘッド扮する列車強盗を巡って、ウッディたち正義側のピンチ→救出→ピンチ→救出とめまぐるしく荒唐無稽に展開していく。そして、パッと画面が変わると、その一連のアクションはアンディがおもちゃで遊んでいた想像の世界をリアルに描いたものだったことがわかる、という場面だ。そしてそれはそのままアンディの母親が撮影したアンディの成長記録ということも示される。ここでは、アンディが成長していくそばには常にウッディたちがいたことを象徴するシーンでもあり、逆に言えばウッディたちが冒険を重ねることでアンディが成長していくことの示唆にもなっているのだ。
このトイ・ストーリー3では、一見逆説的でもある「ウッディたちが冒険を重ねることでアンディが成長していくこと」が重要なのである。これを先の二つのモードに当てはめると「ウッディたちが冒険を重ねること」は子供モード、「アンディが成長していく」ことは大人モードになる。
先の説明で、大人モードが子供モードに覆いかぶさるようにしてあると書いたが、それはこのモードがいつでも切り替え可能だということである。もしこのトイ・ストーリー3を子供モードで見るとすると、そこにはウッディらの団結力をフルに楽しめるエンターテイメント性のかなり高い脱獄劇になっていて、そこには前作の1と2にも見られたような「悪役と対峙する」というわかりやすい構造が見受けられる。言ってしまえば、トイ・ストーリー3における「子供モード」だけを見るならば前作とあまり変わらない。一方、「大人モード」でこの映画を見つめていると、この「悪役と対峙」しながら冒険を重ねていくこと自体が、アンディの成長を象徴していると受け取ることもできる。
この映画が恐ろしく優秀だと思うのは、きちんと前作までの「トイ・ストーリー」を引き継いでおり、その楽しみを前作のファンも納得出来る形で提供しているところだ。
そしてひとつ、この映画においてとても印象的な場面がある。
それはおもちゃたちが「死」を覚悟する場面だ。
最後の最後でロッツォに裏切られ、焼却場の炎の目の前に放り出されて絶体絶命となったおもちゃたちはそこで必死に逃げ出そうとするのをやめ、お互いの手を握って目を強く閉じる。
これはなんとも酷なシーンだ。おもちゃとしての「死」を感じながら、さらに物質的(肉体的)にも消滅しなければいけない運命にも遭遇してしまう。
ここで彼らは一度死ぬ。
その後彼らはなんとも豪快な方法で助けだされるわけだが、精神的にも肉体的にも臨死体験をした彼らは、通過儀礼的に成長している(だからバズとジェシーの間に大人さながらの愛が生まれている)。「子供モード」ではここで話は終わるが、「大人モード」ではもう少し踏み込める。
繰り返しになるが、アンディの分身であるウッディたちが「冒険を重ねること」は「アンディの成長」を意味する。ここではウッディたちが生まれ変わったことで、アンディも精神的に成長することを示唆していたのだ。
この映画でおもちゃたちのアンディに対する思いは絶えず揺らいでいくが、それはそのままアンディの精神的揺らぎと同期する。だから、最良の相棒(ウッディ)を屋根裏にしまい切れなかった(精神的に大人になれなかった)アンディは、そのウッディの助けを得る形で大人としての第一歩を踏み出すことが出来たのだ。




・アンディがボニーに渡したものはただの「おもちゃ」ではない




それが完全に達成されるシーンは、子供時代の象徴だったウッディたちをボニーに引き継ぐ場面だ。
アンディがおもちゃの思い出を語るシーンは実に感動的で、それは「ニューシネマパラダイス」のキスシーンを繋いだフィルムを上映するラストを想起させる。
どちらも映像としての説明は少ない。アンディはおもちゃの設定を語るだけ、「ニューシネマパラダイス」のトトはキスシーンが繰り返される映像を見ているだけである。
しかしどちらも感動的なのは、それだけでその背後にある想いが全て伝わってくるからだ。観客は数珠つなぎのキスシーンを見ることでアルフレッドとトトの想いをそこに見出す。観客はアンディが語るおもちゃの説明を聞くことで、アンディのなかでおもちゃたちの存在がいかに大きかったかを気づかされる。アンディの説明によって観客は冒頭の列車強盗のシーンに引き戻されている。映像上は全く動いていないおもちゃたちがまるで動いているように感じられるのはそのせいだ。

このラストシーンが感動的な理由はもうひとつある。
それは「おもちゃは持ち主が大人になれば死ぬのか」という問題への決着である。
映画の中では屋根裏、大学、保育園と可能性が示されるが、そのどれよりも画期的な答えがおもちゃを譲り渡すこと、というわけだ。
おもちゃたちはボニーに引き取られて、単におもちゃとして蘇ったわけではない。ここではアンディがおもちゃとどう遊んで来たかを話したことが重要になる。この時、すでにアンディにとってかけがえのない(代わりの効かない)おもちゃたちは、ボニーにとってもアンディの十数年間の想いを引き継ぐことでかけがえのないものになっている。誰かが誰かに物を託すことは、いつだってその託した物にその人の想いが宿っており、それは世界に一つしかない(「借り暮らしのアリエッティ」でアリエッティが翔に手渡した小さな洗濯バサミだってそうだ)。ボニーは「アンディのおもちゃ」という世界に二つとない特別なものを受け取ったのだ。これは実に感動的なシーンでもあり、さらにそうすることで今回のロッツォのような悲劇「いつでも身代わりがいるのではないか」という問題の解決策も提示して見せているのだ。




・「You've got a friend in me」の本当の意味





唐突だが、シリーズ1、2、3と通して歌われた「君はともだち」の歌詞の最後の部分を引用してみよう。

時が流れても変わらないもの
それは俺たちの絆
君はともだち
いつも俺がいる 
君のそばに


And as the years go by
Boys, our friendship will never die
You're gonna see
It's our destiny
You've got a friend in me
You've got a friend in me
You've got a friend in me

You've got a friend in me. とは日本語に訳すと「僕は君の友達なんだよ」と語りかけているようなニュアンスらしい。
1と2を観た時点では、これはウッディとバズ(仲間たち)のお互いの絆を象徴するような歌詞だという印象がある。
しかし、それが3を観たあとだと、歌詞の印象がガラリと変わってしまう。これがいい。
「You've got a friend in me」。
それはまるで、ウッディたちがアンディに向かって
「君は遠く離れて、僕らも君の手元からはいなくなってしまったけど、辛いことや悲しいことがあったらいつでも言いにおいで。いつだって君のことを待ってるよ。だって僕らは君の一生の友達なんだからさ」
と語りかけているように聞こえるのだ。
アンディが大人になって、もうウッディたちを必要としなくなったとしても、アンディとウッディたちが築いた関係は特別だ。
そこには物を大事にするという教訓以上の、穏やかながらも強い絆の存在を感じさせる。アンディの中で、ウッディたちは確かに喋り、飛び回り、大冒険の数々を繰り広げていたのだ。それはファンタジーでも空想でもなく、リアルな体験として生きているはずだ。
アンディが語るのは、単なるボニーへの説明ではない。それはそのまま、ウッディたちへ送る別れの言葉であり、ウッディたちが確かに存在していたという証言であり、おもちゃ全体への讃歌だ。
実際のエンドロールではジプシー・キングスが歌うエスパニョール版の「君はともだち」が流れ、随分と陽気な雰囲気のまま終わってしまうのだが、ここでもう一度ランディ・ニューマンの暖かい歌が流れたら最高の締めくくりになっていたはずだ。
いずれにせよ、こうしてアンディは大人になり、おもちゃたちは別々の道ながら生きる道を見つける。それは決して完全な別れではなく、精神的な深い位置で繋がっているという実に感動的な幕引きであった。
トイ・ストーリー3は、子供は大人に成長することを学び、大人は子供時代に還って大人になった日を再び体感することができる。
これはまさに、全年齢に適した最高に優れた映画だと言えるのではないだろうか。
同時期に上映された「借り暮らしのアリエッティ」が霞むほど、類まれなる傑作であった。
映画館で観ることが出来て本当によかったと思える作品だ。

映画「さんかく」のリアリズム

映画「さんかく」を見ました。


映画の日を利用して1000円で観賞、はっきり言って気まぐれで見てきたわけですが、これが結構良かった。
平日の21:20スタートだというのにお客も結構の入り様で、ぱっと見男性客が多かった(カップルでこの映画を見ようというのはどういう心境なのだろうか)。


さて、肝心の内容ですが、鍵はなんといっても小野恵令奈……ではなくて高岡蒼甫
もちろん、コアなAKBファンであれば小野恵令奈目当てで映画を見に来たりもするでしょう。
そうでなくとも小野恵令奈の気取らない仕草(舌っ足らず&鼻にかかった声のダブル攻撃)にぐっと来てしまう人もいるでしょう。


しかしこの映画の異様なまでな切迫感は、高岡蒼甫なしでは語れません。
単に小野恵令奈の未発達なエロさに思わず見とれる映画ではないのです。
それは話の筋を追うだけですぐ気づくはずです。


出てくる主な登場人物は、百瀬(高岡蒼甫)、佳代(田畑智子)、桃(小野恵令奈)。
百瀬と佳代は東京郊外に同棲中。で、学校が夏休みのあいだの1ヶ月間、佳代の妹である15歳の桃が転がり込んでくる、というストーリー。
おおかたの想像通り、百瀬は無防備な桃のエロさにのめり込んでいく……というお話。


お気づきだろうか。
百瀬演じる高岡蒼甫の奥さんが宮崎あおいであることはあまりにも有名。
そして、高岡蒼甫宮崎あおいに出会ったとき、宮崎あおいは「14歳」であった(当時高岡蒼甫は19歳)。
これは偶然の一致なのだろうか。
はっきり言って、自分にはどうしてもそうは見えなかった。完全にわざとだと思ったのです。


理由は以下の二つのことによる。
一つは、百瀬が桃を自分の車の助手席に乗せて運転をしているシーン。
ここで百瀬は高校のときの後輩と出くわす。
助手席に乗っている桃を見て、後輩は「あのー」と紹介を促す。
そこで百瀬は
「あ、これ? おれの彼女。おれ、ロリコンだからさ。……はは、冗談だよ!」
という映画としても日常の会話としても最上級に笑えない一言を放つ。
なぜそんなセリフをわざわざ言う必要があったのか。
答えはただ一つ。
「言わせたかったから」に決まっている! 高岡蒼甫に「おれロリコンだから」と言わせたかったに決まっている!


そしてもう一つ。
どっぷりと桃にのめり込んだ百瀬は、桃に「よくわからない。だってわたし15だよ?」と言われてはたと気づくシーンがあるのだが、
そのときの百瀬ののた打ち回るセリフはこうだ。
「ハハハ…、じ、15かよ……。……15はねえよ…ははは……。」


本人にそれ言わせるか!? すげーな監督! もうあんた尊敬するよ! 完全なあてつけだよ!



そんなわけで、僕が見た限りではこの映画は高岡蒼甫ロリコン性を世に暴く、というおそらく世界の宮崎あおいファンだけがなんとなく憂さ晴らしが出来るという、とんでもない監督自身のうっぷん晴らし映画であることは間違いないのです。
そんな高岡蒼甫の実生活までリンクするというトンデモ映画だったわけですが、
そんなひねくれた見方をしなくても充分に楽しめます。


実はこの三人、最低一回ずつ「ストーカー」呼ばわりされているのです。
桃は先輩のバイト先の女(大島優子)に、佳代は百瀬に、百瀬は桃の彼氏(っぽい奴)に。
三人はそれぞれ人との関わり方が上手くない。

「相手が嫌がってんのわかんねーのかよ!」

というセリフが出てきますが、友達が全く居なさそうなこの三人にわかるわけがないのです。


「好き」という気持ちがどうにもすれ違って、結果的にそれが「ストーカー」になってしまう。
コミュニケーション不全の三人が空振りをしまくってて「痛い」人物像がありありと浮かんでくる。
それが少しだけ怖くもあるのです。


で最終的に救いが待っているのかというと……。いやー。



結論。
恋愛映画だと思ってみると、笑う一方で異様にイラつきます。
小野恵令奈を観に行くと、ファンになります。
高岡蒼甫ロリコン暴露話だと思うと、爆笑します。

オススメ。