ディズニー版スクリューボール・コメディは「変化」と「絆」と「復活」の傑作物語! バイロン・ハワード&ネイサン・グレノ「塔の上のラプンツェル」



 ディズニー・クラシックス50作品目にしてプリンセスストーリーである「塔の上のラプンツェル」は、間違いなく傑作として語られるべき作品だった。


 18年間もの間塔の中に閉じ込められている20mの金髪を持つ少女、ラプンツェルは、忍びこんできた盗賊、フリン・ライダーとの出会いをきっかけとして、“自分の誕生日に毎年上がっていく無数の灯りを近くで見たい”という夢のために外の世界へと飛び出していく。ディズニー版スクリューボール・コメディ(クセのある男女がドタバタを繰り返しながら恋におちて、結局は丸く収まるという1930年代から40年代のハリウッド映画で流行ったジャンル)と言ってもいいテンポの良さは、往年のプリンセスストーリー、「或る夜の出来事」を彷彿とさせている(原題「Tangled」が「からまる」、「こんがらがる」という意味を持っていることからも、騒がしさがウリのスクリューボール・コメディを意識していることが推測される)。




■ 「女の業」と「親の勝手なワガママ」が結びついた魔女・ゴーテル


 さらに、長い金髪の理由を「時を戻す魔法」によるものとし、魔女・ゴーテルがそれを利用するためにラプンツェルを塔に閉じ込めているという原作からの設定の改変は、現実的な親子関係(特に母と娘)を考えさせるものとして、物語に大きな深みを与えている。


 ゴーテルは生まれたてのラプンツェルを親(王様と王妃)から盗み、人間としての寿命をとうに越えながら、ラプンツェルの髪の力で若さを保っている。重要なのは、ゴーテルが若さへ執着するがゆえに、ラプンツェルを大事に扱っていることにある。ゴーテルにとって、ラプンツェル(の髪)は命そのものだ。多少の嫌味は言うものの、取りに行くのに3日かかる「貝の絵の具」のプレゼントをあっさり承諾するなど、完全な悪とは言いづらい(映画の最後にようやく、「悪になろうじゃないの」と言って悪になる)。「シンデレラ」には継母が、「ノートルダムの鐘」にも同じような設定のフローロが出てくるが、彼・彼女らと決定的に違うのは、ラプンツェル(子)を失うことがゴーテル自身(親)を失うことと同義になっており、それがゴーテルを究極的に母親にさせている点にある。「外の世界は怖い」「男は恐ろしい」「あなたが大事なの」というセリフを連発するゴーテルは、自分の都合によって子を縛り付けているワガママな親の姿に過ぎない。


 一方で、ラプンツェル自身も魔法の髪の力を教えられていて、それがゆえに身を守っている(ことにしている)ゴーテルを理解しているしに心を寄せているところが興味深い。言ってしまえば、退屈であることを抜きにして、ラプンツェルの身は完全に保証されている。ラプンツェルにとってもゴーテルは結局のところ唯一の心の支えなので、「”灯り”を見に行くこと」が「ゴーテルを裏切ること」にいかに勝っているかをどう描くのだろうかと思っていたが、塔の脱出直後で、躁と鬱を繰り返すラプンツェルを見せ、「葛藤しながら、それでも前に踏み出していく」とすることでこの問題を解決している。新しいことへ挑戦することの決して単純ではない感情のゆらぎを、テンポよく、しかもギャグとして描いているので邪魔に感じないし、説得力も増すことに成功している(ラプンツェル本人の「複雑なのよ」という言葉が素直に納得出来るのはそのためだ)。無駄のないこの演出には、思わず膝を打った。「ラプンツェル」は、そんな親の敷いたレールに疑問を持ち、葛藤を繰り返しながら自立していく話でもある。




■ 見た目の関係なしに繋がっている絆に感動


 ラプンツェルの金髪も印象に残るが、この金髪が遺伝的なものでないという点にも留意しておきたい。王様、王妃とも髪の色はブラウンだ。つまり、普通に考えればラプンツェルもブラウンの髪なはずなのだが、「魔法の花」のスープを妊娠中の王妃が飲んでいたために、髪は金髪になったという設定になっている。


 「髪」というのは、その人を象徴する、言わばアイデンティティの塊だ(特に女性にとっては重要な意味を持つだろう)。ラプンツェルが幼くして誘拐されて以来、街の外壁には両親と金髪の幼いラプンツェルが大きく描かれ、ラプンツェルの誕生日には国中から彼女への思いを込めた“灯り”が上がる。つまり、王室を含めた国中が「ラプンツェルは金髪」と思っているはずなのだ。


 ラプンツェルは王妃と再会する前に、フリンことユージーンに髪の毛をばっさりと切られる(これは驚いた!)。ラプンツェルにしてみれば、その長い金髪は、自他共に認める、ほとんど唯一と言ってもいいアイデンティティだったはずだ。しかし、髪を切られたことでボサボサのショートカットになり、茶色になり、魔法の力さえなくなってしまった彼女が王妃に会ったところで、彼女が本物の娘だと認めてもらえるのだろうか。王妃と再会した瞬間のラプンツェルは、かわいそうなくらい不安でいっぱいな表情をしている。


 ところが、それが実にあっさりと受け入れられるのである。それもすぐに。一点の曇りもなく、「髪の色はどうしたの?」という質問もなく。いくら顔が似ているからと言って、一体これはどういうことなのだろうか?


 王妃にとっては、そんなの関係なかったのだ。いくら髪の色が変わっていて、ボサボサで、みすぼらしい姿であったとしても、見た瞬間に「娘だ!」とわかったのだ。外見などを飛び越えて、この本当の母娘は深いところで繋がっていたのだ。




■ 一度「死んで」、そこから手に入れる未来こそ「希望」


 新しい世界に、まさに一歩飛び出すことで夢を果たし、その過程で考えもしなかった幸せをつかむラプンツェルに、共感する人も多いだろう。長い長い金髪を背負ったラプンツェルももちろんかわいらしいが、その長い髪は彼女の「過去」からずっと背負ってきた窮屈さの象徴でもある。塔を飛び出し、さらに髪の毛まで切り落とした後のラプンツェルは、憑き物が落ちたかのように(実際に魔法という名の呪いは解けた)、実にさっぱりとしているではないか。ラプンツェルは髪を切られることで精神的に死に、ユージーンは実際に死ぬ。そうしていままで背負っていたものをいったん全て捨て去ってしまうことで、新しい世界を作っていけるのだというストーリー構成は、本当に未来への「夢と希望」を感じられる。


 その他、見た目は怖いがそれぞれかわいい夢を持っている「荒くれ者たち」(夢と外見は関係ない)、異様に賢い馬・マキシマスや、ディズニー作品には必ずと言ってもいいほど登場する主人公のパートナー、カメレオンのパスカルなど脇役も表情豊かで楽しい。


 日本語吹き替え版では中川翔子さんがハマリ役と言える演技で奮闘しているし、音楽では「リトル・マーメイド」のアラン・メンケンが、2010年度アカデミー賞主題歌賞ノミネートという健在ぶりを見せている。


 「ローブをまとった老婆」、「片手がフックの男」などといった、過去ディズニー作品へのオマージュもたくさん(ピノキオもどこかに登場しているらしい)あるので、ディズニーファンも、そうでなくても、全世代が楽しめる作品だ。こうしてディズニー・クラシックス50作目の記念作品から、夢と希望に満ちた新たなプリンセスが誕生したことは、ディズニーファンとして純粋に嬉しい。