究極の全年齢向け映画 トイ・ストーリー3

※このエントリーは大いにネタバレを含みます。観たことを前提に書いておりますので、閲覧の際はご注意ください。

トイ・ストーリー自体を否定しかねない予告編の衝撃


トイ・ストーリー3のオフィシャルサイトに掲載されているストーリー説明の書き出しはこうだ。

<おもちゃにとっての"最高の幸せ"は、子供たちと過ごす楽しい時間。だが、それは永遠には続かない。子供はやがて成長し、おもちゃを必要としなくなる日が来るからだ。>


ここからもすでにわかるように、シリーズを通して登場していた持ち主、アンディとの別れがこの映画の大きなテーマになっている。
映画館で初めてこの予告編を見たとき、否応もなく衝撃を受けた人は大勢いるだろう。
アンディの成長。それはトイ・ストーリーにとってタブーだったはずである。確かに、2の終わりでは「その日」の示唆はあった。が、トイストーリーはやはり寓話だ。ファンタジーだ。
おもちゃにとって死を意味する「その日」に真正面から取り組むという宣言でもあった予告編は、明るく精一杯生きることを教えてくれたウッディたちが画面の中で永遠に生き続けているとどこかで思っていた我々に渾身の右ストレートを浴びせたのである。
これは効いた。観客はアンディの成長した姿をまともには見れない。もともとこのトイ・ストーリーは、「もしもおもちゃが動きだしたら……」という空想から始まった話だ。おもちゃが動き出すからファンタジーになっていた。現実を忘れるから楽しめた。
このトイ・ストーリー3は、持ち主アンディとの関係性の中で、おもちゃの死という現実を、成長したアンディを登場させることでわざと残酷に見せつけている(しかも予告編で。それはおもちゃたちが一番危惧していたことだ)。だから我々はこの予告編には驚くし、目を逸らさずにはいられない。



トイ・ストーリー3における主人公はウッディたちではない



簡単にトイ・ストーリー3ののあらすじを振り返っておく。

「おもちゃのウッディやバズと楽しく遊んでくれたアンディも、いまや17歳。大学に進学するため、家を出ることになった。だが屋根裏部屋にしまわれるはず だったおもちゃたちが、ちょっとした手違いからゴミ捨て場に出されてしまう。どうにかゴミ袋の中から逃げ出したものの、アンディに捨てられたと誤解したおもちゃたちは大ショック!! 仕方なく、託児施設に寄付される道を選ぶ。だが「また子どもたちに遊んでもらえる!」と喜んだのも束の間、そこにはモンスターのような子どもたちにもみく ちゃにされる、地獄の日々が待っていた…! 」 goo映画より引用

このトイ・ストーリー3は二つのストーリーによって成り立っている。一つは、上のあらすじにも示されているような、おもちゃたちの冒険活劇である。これはおもちゃたちが刑務所と化した保育園から逃亡を図るというもの。そしてそれに覆い被さるようにしてあるのが、もう一つのストーリー。それが予告編で観客に衝撃を与えたテーマ、おもちゃと持ち主の別れである。
このストーリーがストーリーを覆っているという二重構造こそが、この映画の鍵だ。ここをよく注意して欲しい。ロッテントマトで99%の高評価を得るという驚異的な数字に裏付けされた魅力も、これに繋がっている。
ここで仮に、前者のストーリーを子供モード、後者を大人モードと呼ぶことにする。子供モードは子供にもきっと理解できる話(筆者は子供ではないのでここは完全な想像だが)、大人モードは大人であればさらに理解できる話、という認識である。
より具体的にその違いを示せば、そのスタートは両モードとも共通で映画の最初になる。子供モードは焼却場から生還するまでで終わり、大人モードはラストにアンディがおもちゃを譲り渡すまで続く。
トイ・ストーリーの主人公といえば、もちろんウッディとバズ・ライトイヤーである。ウッディたちはロッツォという困難に、あきらめない心と団結によって「地獄の日々」に立ち向かう。しかし、これは「子供モード」における話だ。この映画の全体を覆うストーリー、つまり「大人モード」では視点が変わってくる。すなわち、主人公はウッディたちではない。そう、それは、アンディなのだ。
このことについては映画の冒頭からも推察出来る。映画の始まり、トイ・ストーリーの主要キャラが総出演するアクションが繰り広げられる。Mr.ポテトヘッド扮する列車強盗を巡って、ウッディたち正義側のピンチ→救出→ピンチ→救出とめまぐるしく荒唐無稽に展開していく。そして、パッと画面が変わると、その一連のアクションはアンディがおもちゃで遊んでいた想像の世界をリアルに描いたものだったことがわかる、という場面だ。そしてそれはそのままアンディの母親が撮影したアンディの成長記録ということも示される。ここでは、アンディが成長していくそばには常にウッディたちがいたことを象徴するシーンでもあり、逆に言えばウッディたちが冒険を重ねることでアンディが成長していくことの示唆にもなっているのだ。
このトイ・ストーリー3では、一見逆説的でもある「ウッディたちが冒険を重ねることでアンディが成長していくこと」が重要なのである。これを先の二つのモードに当てはめると「ウッディたちが冒険を重ねること」は子供モード、「アンディが成長していく」ことは大人モードになる。
先の説明で、大人モードが子供モードに覆いかぶさるようにしてあると書いたが、それはこのモードがいつでも切り替え可能だということである。もしこのトイ・ストーリー3を子供モードで見るとすると、そこにはウッディらの団結力をフルに楽しめるエンターテイメント性のかなり高い脱獄劇になっていて、そこには前作の1と2にも見られたような「悪役と対峙する」というわかりやすい構造が見受けられる。言ってしまえば、トイ・ストーリー3における「子供モード」だけを見るならば前作とあまり変わらない。一方、「大人モード」でこの映画を見つめていると、この「悪役と対峙」しながら冒険を重ねていくこと自体が、アンディの成長を象徴していると受け取ることもできる。
この映画が恐ろしく優秀だと思うのは、きちんと前作までの「トイ・ストーリー」を引き継いでおり、その楽しみを前作のファンも納得出来る形で提供しているところだ。
そしてひとつ、この映画においてとても印象的な場面がある。
それはおもちゃたちが「死」を覚悟する場面だ。
最後の最後でロッツォに裏切られ、焼却場の炎の目の前に放り出されて絶体絶命となったおもちゃたちはそこで必死に逃げ出そうとするのをやめ、お互いの手を握って目を強く閉じる。
これはなんとも酷なシーンだ。おもちゃとしての「死」を感じながら、さらに物質的(肉体的)にも消滅しなければいけない運命にも遭遇してしまう。
ここで彼らは一度死ぬ。
その後彼らはなんとも豪快な方法で助けだされるわけだが、精神的にも肉体的にも臨死体験をした彼らは、通過儀礼的に成長している(だからバズとジェシーの間に大人さながらの愛が生まれている)。「子供モード」ではここで話は終わるが、「大人モード」ではもう少し踏み込める。
繰り返しになるが、アンディの分身であるウッディたちが「冒険を重ねること」は「アンディの成長」を意味する。ここではウッディたちが生まれ変わったことで、アンディも精神的に成長することを示唆していたのだ。
この映画でおもちゃたちのアンディに対する思いは絶えず揺らいでいくが、それはそのままアンディの精神的揺らぎと同期する。だから、最良の相棒(ウッディ)を屋根裏にしまい切れなかった(精神的に大人になれなかった)アンディは、そのウッディの助けを得る形で大人としての第一歩を踏み出すことが出来たのだ。




・アンディがボニーに渡したものはただの「おもちゃ」ではない




それが完全に達成されるシーンは、子供時代の象徴だったウッディたちをボニーに引き継ぐ場面だ。
アンディがおもちゃの思い出を語るシーンは実に感動的で、それは「ニューシネマパラダイス」のキスシーンを繋いだフィルムを上映するラストを想起させる。
どちらも映像としての説明は少ない。アンディはおもちゃの設定を語るだけ、「ニューシネマパラダイス」のトトはキスシーンが繰り返される映像を見ているだけである。
しかしどちらも感動的なのは、それだけでその背後にある想いが全て伝わってくるからだ。観客は数珠つなぎのキスシーンを見ることでアルフレッドとトトの想いをそこに見出す。観客はアンディが語るおもちゃの説明を聞くことで、アンディのなかでおもちゃたちの存在がいかに大きかったかを気づかされる。アンディの説明によって観客は冒頭の列車強盗のシーンに引き戻されている。映像上は全く動いていないおもちゃたちがまるで動いているように感じられるのはそのせいだ。

このラストシーンが感動的な理由はもうひとつある。
それは「おもちゃは持ち主が大人になれば死ぬのか」という問題への決着である。
映画の中では屋根裏、大学、保育園と可能性が示されるが、そのどれよりも画期的な答えがおもちゃを譲り渡すこと、というわけだ。
おもちゃたちはボニーに引き取られて、単におもちゃとして蘇ったわけではない。ここではアンディがおもちゃとどう遊んで来たかを話したことが重要になる。この時、すでにアンディにとってかけがえのない(代わりの効かない)おもちゃたちは、ボニーにとってもアンディの十数年間の想いを引き継ぐことでかけがえのないものになっている。誰かが誰かに物を託すことは、いつだってその託した物にその人の想いが宿っており、それは世界に一つしかない(「借り暮らしのアリエッティ」でアリエッティが翔に手渡した小さな洗濯バサミだってそうだ)。ボニーは「アンディのおもちゃ」という世界に二つとない特別なものを受け取ったのだ。これは実に感動的なシーンでもあり、さらにそうすることで今回のロッツォのような悲劇「いつでも身代わりがいるのではないか」という問題の解決策も提示して見せているのだ。




・「You've got a friend in me」の本当の意味





唐突だが、シリーズ1、2、3と通して歌われた「君はともだち」の歌詞の最後の部分を引用してみよう。

時が流れても変わらないもの
それは俺たちの絆
君はともだち
いつも俺がいる 
君のそばに


And as the years go by
Boys, our friendship will never die
You're gonna see
It's our destiny
You've got a friend in me
You've got a friend in me
You've got a friend in me

You've got a friend in me. とは日本語に訳すと「僕は君の友達なんだよ」と語りかけているようなニュアンスらしい。
1と2を観た時点では、これはウッディとバズ(仲間たち)のお互いの絆を象徴するような歌詞だという印象がある。
しかし、それが3を観たあとだと、歌詞の印象がガラリと変わってしまう。これがいい。
「You've got a friend in me」。
それはまるで、ウッディたちがアンディに向かって
「君は遠く離れて、僕らも君の手元からはいなくなってしまったけど、辛いことや悲しいことがあったらいつでも言いにおいで。いつだって君のことを待ってるよ。だって僕らは君の一生の友達なんだからさ」
と語りかけているように聞こえるのだ。
アンディが大人になって、もうウッディたちを必要としなくなったとしても、アンディとウッディたちが築いた関係は特別だ。
そこには物を大事にするという教訓以上の、穏やかながらも強い絆の存在を感じさせる。アンディの中で、ウッディたちは確かに喋り、飛び回り、大冒険の数々を繰り広げていたのだ。それはファンタジーでも空想でもなく、リアルな体験として生きているはずだ。
アンディが語るのは、単なるボニーへの説明ではない。それはそのまま、ウッディたちへ送る別れの言葉であり、ウッディたちが確かに存在していたという証言であり、おもちゃ全体への讃歌だ。
実際のエンドロールではジプシー・キングスが歌うエスパニョール版の「君はともだち」が流れ、随分と陽気な雰囲気のまま終わってしまうのだが、ここでもう一度ランディ・ニューマンの暖かい歌が流れたら最高の締めくくりになっていたはずだ。
いずれにせよ、こうしてアンディは大人になり、おもちゃたちは別々の道ながら生きる道を見つける。それは決して完全な別れではなく、精神的な深い位置で繋がっているという実に感動的な幕引きであった。
トイ・ストーリー3は、子供は大人に成長することを学び、大人は子供時代に還って大人になった日を再び体感することができる。
これはまさに、全年齢に適した最高に優れた映画だと言えるのではないだろうか。
同時期に上映された「借り暮らしのアリエッティ」が霞むほど、類まれなる傑作であった。
映画館で観ることが出来て本当によかったと思える作品だ。