ダムタイプ「S/N」は希望に満ちている。

ダムタイプ「S/N」

六本木ヒルズ森美術館で開催中(〜2010年7月4日)の「六本木クロッシング2010」。
テーマである「芸術は可能か」という言葉は、ダムタイプのメンバーである古橋悌二が遺したものだ。


六本木クロッシング2010」では、展示の最後にこのダムタイプ「S/N」の上映がある。
この上映を見て、私は大変に感銘を受けたので、そのことについて少し書き記しておきたい。
作品の概要は、ネット上でもたくさん紹介されているが、ここでは2008年に「S/N」の上映が行われたときの紹介を載せておく。

《S/N》は,ジェンダーセクシュアリティエイズなど「今日の社会が直面する切実な問題」をテーマにした作品です.ここでは,人種,国籍といった,わたしたちが社会によって規定されているアイデンティティや,そこから生まれるあらゆるマイノリティや性差に対する問題意識が表われています.
インスタレーション等も含むプロジェクトとして始まった《S/N》は,1992年10月,ディレクターであった古橋悌二が親しい友人達に宛てて自らの HIV感染とエイズ発症を手紙で告げたことで急速に展開しました.

http://www.ntticc.or.jp/Archive/2008/S_N/index_j.html

「芸術は可能か?」という問い掛けが古橋から提示されたとするならば、クリティカルに響くのは当然だと言っていい。
「S/N」で言及されていた問い掛けは「芸術は可能か?」という以前に、上記のようにジェンダーセクシュアリティエイズなどを取り上げる。何をもって普通なのか、見え方や感じ方に特徴があるだけじゃないのかという命題を最初に立て、言わばそのような「マイノリティ」が認識され始めた時代に、「ではラブソングとは何なのか」つまり、「人間が人間を愛するとは何なのか」という根源的な問題を85分間、我々に突きつけ続けるのだ。


詳細なレビューは省くが、この舞台の最後で、Nana Mouskouriの「Amapola」が流れるシーン(歌に合わせてドラッグクイーンと化した古橋が口をあてている)に焦点を当てたい。


参考− Nana Mouskouri Amapola




それまでの激しい照明と電子音で感情ごと揺さぶられた観客は、この一転して穏やかな曲調に妙な安心感を覚える。
そして曲は「Amapola」のまま、自身を「セックスワーカー」であると語るブブが舞台を右から左へ横切って終了していくのだが、その時、ブブの股の間から万国旗がスルスルと出てくるのだ。


女性の股の間から出てくるものは、子供だ。
世界にどんな国旗があり、国境があり、セクシャリティがあり、ハンディがあったとしても、
それぞれが一人の女性の子供として生まれてくることに全く違いはない。
ヘタをするとただの奇を衒った演出とも取られかねないこの場面が、あまりに希望に満ちている。


これがとても感動的なのである。


「アマポーラ 、麗しのアマポーラ
あなたの心はいつもあなたひとりのもの
かわいいひと、ぼくはあなたが好き
花が陽の光を愛するように


アマポーラ、麗しのアマポーラ
つれなくしないで、ぼくをみて


アマポーラ、アマポーラ
どうしてそんなひとりっきりで生きていけるの?」


これは「Amapola」の歌詞だ。
そう、これは「ラブソング」だ。
80分以上も観客を揺さぶり、突き離し、挑発した後、
古橋が問題とした「ラブソングとはなにか」をここでひとつの答えとして提示する。
この「Amapola」曲中の古橋とブブの穏やかな表情に希望があり、救いがあり、
それがそのまま答えになっているのだ。


この95年上演の数ヶ月後には亡くなってしまう古橋悌二が、
それでも「片思い」の切なさを歌うというのも、人間的な可笑しみと悲しみを体現しているではないか。




「芸術は可能か?」




「芸術は可能か?」
それはそのまま芸術家にとって「お前のやっていることは誰かを救うのか?」という存在意義に関わる問題に置き換わる。それは「アーティスト」を表明する者にとって自分の立場が脅かされる辛辣な言葉だ。
「S/N」に登場した人物たちのように、「マイノリティ」であるがゆえに苦しんでいる人々はたくさんいる。ならば、芸術とは彼らを救うためにあるのではないのか? アートワールドがどうとか、金銭がどうとか、そんなことは芸術の役割なのだろうか? お前のやっている「芸術」とはなんだ? その「芸術」と呼ばれるものはいま、この目の前で弱って、死にそうになっている人間を救うことができるのか? 果たしてそういう実績があるのか?
そう問いかけているのだ。


だからこそ、芸術家はこの問いに対して言葉をつまらせてはダメなのだ。
可能だろうが不可能だろうが我々のやることは変わらない、のようなかわす答えも説得力がない。
可能に決まってるじゃない、という全く根拠のない自信こそが必要になる。
「S/N」のラストのように、答えを出すのが難しい状況でも、それでも穏やかに希望を示し続けなければならないのだ。それこそが救いだし、それでいい。


その点、六本木クロッシングでは、Chim↑Pomのエリイが痛快だった。
「芸術は可能か?」の問いに、「可能可能可能!」と3回繰り返したこと。これは希望があった。
当たり前のことを聞くなよ! レベルで語ってくれればこっちも笑えるのだ。エリイにはそんな明るさがある。その答えが聞けただけでも六本木クロッシングの価値はあったように思う。



この「S/N」を見て強烈に人間が恋しくなった。
私が思うに、「芸術は可能か?」という問いは「目の前のものを愛せ」ということだ。
いま目の前にあるものを正しいと信じて、心底信頼し、たまには客観的になる必要もあるだろうが、それらをひっくるめて「可能にさせる」ということなのではないか。


あらゆる意味で希望に満ちているこの「S/N」を、「未来がない」と嘆く私たちが今こそ見直すべきなのである。